<心の働き>

 人間の頭脳・四肢・五官の働きは、総て「心」の支配によってそれぞれの官能を表現する。

 何物も「心」を置かなければ、そのものを知ることはできない

 物を見ても、音を聞いても、「心」がそこに働かなければ、見ても見えなく、聞いても聞こえない

 即ち、盲目・聾(つんぼ)に等しい

 逆に、「心」が頭脳・四肢・五官を適当に使えば使う程、鋭敏・滑脱(かつだつ)・重厚となり、その機能を増進する

 かつ、その発達は無限である

 生まれもって「心の働き」に恵まれた鋭敏・重厚な人でも、これを使用することを怠り、また使い過ぎて疲労を重ねれば、次第に委縮(いしゅく)して鈍重になり、用を成さなくなる

 故に、適宜(てきぎ)の使用と休養は常に心掛けねばならない

 

 「心」は1つの事に思いを集中し、その度合いが深く強くなればなる程、他の事に働きを及ぼさなくなる

 1つのことに専心没頭することは、物事の真理を追究し精巧な製品を作るなどは是非ともなくてはならなく、極めて必要であるが、このような局部的に「心」を集中するのは、全般を支配する時には不都合な場合がある

 例えば戦争において、一局部において綿密な計略のもとに大勝を得たとしても、全軍の統制を疎かにして指揮を誤り、結局敗北することがある。

 

 剣道において一局部の「隙」を見出し、そこに適切な打突を加えることは極めて重要なことであるが、そのところに意を留めてはならない

 打突の技の終わった後は尚更(なおさら)であるが、打突の技をほどこす際でも全体に置く「心」を失わないで、しかもその部分をしっかり意識しなければならない

 そこに「残心」・「止心」・「放心」の理論がある。

 

 全体に置く「心」を失わないで局部をはっきり意識するのは、理論的には甚だ難しいように思われるが、修練を重ねれば実際上ではさほど難しいものではなく、上手下手はあっても相当の修練を積んだ者は、殆んどこれを無意識的に行なっている

 これを自在に適切に行ない、「何にも動じない心」をもって堂々と対峙するには朝鍛夕錬の修行によってのみ体得されるのである

 

<四戒>

 剣道をするに、「驚戄疑惑(きょうくぎわく)」を起こすことは最も悪いこととして、古来より戒めている

 これを「四戒」と言う

 

 「どんな相手に遭っても、平気で心を動かさないで対すべき」を、身体の偉大な者、気力の特に盛んな者、強豪の名の高い者、変わった構えの者などに際会した時に、驚きあるいは戄(おそ)れて心が動揺しやすい

 

 互いに対峙して、相手が攻めてくる時やじーっと構えて己の動くのを待っている時には「誘いの手であるか」、さらに相手の隙を見出した時には「それがわざと隙を見せてその裏をかいて己を打突しようとしているのではないか」と疑い、攻防いずれを取ろうか迷う

 

 「相手の何処(いずこ)を打突したら良いか」、「どんな技を用いれば良いか」などと構えている時に、また「今打突に出ようとする咄嗟(とっさ)の時」に惑(まど)う

 

 これらの「心(の乱れ)」を起こすのは、よく有りがちではあるが、剣道には全くの禁物である

 こんな時には、「心」が2つになり、気力は衰え萎縮(いしゅく)して己の技が成就しないばかりでなく、それが忽(たちま)ち「隙」となって敗を招く

 

 このような「心(の乱れ)」を起こさずに常に「無心」となって対すべきであるが、もしこのような「心(の乱れ)」が生じた時には、直ちに旺盛なる気力をもってこれらの「心」を除去して「平静の心」となすべきである

 腹の底から渾身の勇を振って大声を発するも、除去の1手段である

 

 これら4つの他に、「勝ちを急ぐ」、「相手を軽視する」、「己の技量を良く見せたい」、「観客の賞讃を受けよう」などの「心」はいずれも「邪心」であって、起こしてはならないのであるが、先に述べた「驚戄疑惑(きょうくぎわく)の心」が最も生じやすく、また勝敗に及ぼす影響が大きいので、特に4つを取り上げて「四戒」としたのである

 

 「狐疑心(こぎしん)」、狐(きつね)は猟夫を見付けたら驚いて一目散に逃げるが、大分遠ざかって「もうこの辺までくれば大丈夫」と思った時に、一寸止まって後ろを振り向き、猟夫の方を見る習性があるらしい

 それを知っている猟夫は、銃を構えて待っている

 狐が後ろを向いたところを撃ちしとめる

 

 こんな疑心を起こさないで何処(どこ)までも走って逃げおおせれば、撃たれずに済むものを、「猟夫が未だ居るだろうか」、「己を窺(うかが)っているだろうかなどと「疑いの心」を起こして振り向くから撃たれる

 

 剣道も相手の「隙」を見出したら、それが「誘いの手であろうか」、「己を打突する手段ではなかろうか」などと「疑心」を抱くことによって勝機を逃し、勝つことができるものを負けにしてしまう

 狐の習性を引用して「疑心」を戒めたものである

 

<平常心>

 人間は平穏無事にいれば「心」が平静に保たれるが、何か変事が起こり、奇異なるものに遭遇すれば、「よほど修行を積み、胆力の据わっている人」でない限り、大体の人は「心」が動揺する

 その甚だしいものは、「心」が顚倒(てんとう)し、頭脳は朦朧(もうろう)となって、為すべきことの秩序を失い、判断はつかず、物事の正邪是非を弁(わきま)え兼ねる所謂(いわゆる)心身状態に陥(おちい)るに至る

 

 剣道は極めて微妙なる「心の働き」を要するものであるから、何事かによって「心」に動揺を起こし、「心」が千々に乱れては、日頃の練習で会得した技は少しもこれを発揮することを得ないで敗を喫する

 

 そのため、何事にも「心」を奪われず、気を張らず、弛めず、止めず、散漫ならず、曲がらず、折れず、「正しく直にして伸び伸びとした心」をどんな火急な変事が突発しても失わないように平素凡ゆる修行、鍛錬を積まねばならない

 

 如何(いか)なる相手に対しても、動作にも総て「平常心」を失わなければ、己の技は自在に施され、堂々と対峙される

 何事によらず「平常心」を失わず、突発した事変に対して泰然自若(たいぜんじじゃく)として直ちにその善後策を講じて処理するを得る人は、その身の安全を得ると同時に、他の人々にも安心感を与える

 

 達人名人と言われる人は、常人とは異なる際立った特に優れた技を持ち、常人の考え及ばない奇異の技を有するものの如くに思われなくは無いが、実は優れた達人ほど、常人と変わった技は窺(うかが)われず、優れた所作は無く、凡人愚人のように見える

 ただし、達人は常と変わらない「平静な心」を持っているから相手の動作を悉(ことごと)く観破し、しかも「心」が落ち着いているから、普通に真っ直ぐに打突する技が的確に成就する

 しかも、打突する技そのものは、早からず遅からず、常人の技と何ら変わらない

 

 昔武徳会本部の主任師範内藤高治範士に某教士が稽古に行って、某教士の曰く「内藤先生は技が早くてどうもならない」と。

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 内藤範士の竹刀は先太の大刀で非常に重く「そんなに早技が出るはずはない」と思って、内藤範士と某教士の稽古を注意して見ていたら、内藤範士が面を打ちに行く時には、某教士は内藤範士の気合で攻めつけられて体が後ろに掛かり、後足が居ついて動けない状態になっている

 そのところを悠(はか)り、内藤範士が正面を打つ

 決して太刀の動かし方が早いのでもなければ、特別な打ち方をするのでもない

 しかし、打たれる者からすれば、何時その太刀が来るのか分からないので、特に早く感じるのである

 己が攻められて「隙」の生じた時には、「己の打たれるところ」、「相手の太刀の動くところ」総て分からないから、打たれてから「相手の太刀の早さ」を感じるのである

 

<不動心>

 「不動心」とは、「如何なる場合に遭遇しても心を動かすことなく泰然としている」を言う

 「心」を動かしては「平常心」は保てないので、両者同じ意に解されなくは無いが、「平常心」は「危難変事に遭ってもそれに捉われないで、常に持っている心と変わらないで居る」との意である

 「不動心」とは「危難変事の際に更に堅固の意志、剛毅なる精神によって己の深遠を翻(ひるが)えさせない」を言う

 更に「不動心」は、「精神の畏縮転倒、行為の渋滞、喜怒哀楽、得意、失意などによって本心を失くする時、生死の間にさ迷い理非曲直を弁ぜぬに至った時毅然としてこれらの妄念を裁断して本念の姿となり、確固たる信念を曲げないこと」である。

 邪悪なる誘導に会う時、相互の意見対立の場合、生死を決定する時など、「不動の信念」は特に必要とする

 ただし、「不動心」を持つには、物事の理非曲直、善悪正邪、情操節義などの道義的精神をよく弁(わきま)え、しかも時宜に適する判断を持つように、また一旦信念を抱きこれを表明すれば軽々しく変更することの無いように、確乎たる修養鍛錬を必要とする

 剣道の技を修練するに「不動心」の重要なるは言うまでもないが、剣道は抑(そもそも)は真剣をもって生死を争うを本質とする関係上、生死岸頭に立って本心を曲げない「不動心」は、至極必要とする。